先日、Facebookを通じて、高校時代の友人の訃報がもたらされました。
高校卒業以来15年以上会っていなかった友人ではありますが、高校時代は結構仲良かった間柄。
ずっと疎遠になってしまっていましたが、最近Facebookを通じて連絡がとれるようになり、お互いのタイムラインの投稿に対してコメントをしたりしていました。
亡くなる前日の夕方にも、1歳になったばかりのお嬢さんの写真を投稿していて。
可愛いお嬢さんとの日々を楽しんでいる幸せそうな様子にこちらも癒されていたと言うのに。
どうして?どうして?
訃報を知ったとき、本当に信じられない気持ちでした。
あんなに幸せそうだった彼女の投稿を思い返すと、きっと彼女の人生は幸せだったと思うのです。きっと後悔のない人生だったと思います。
それでも。
まだ遣り残したことが沢山あるでしょう。
まだ1歳になったばかりのお嬢さんを残していった彼女、どんなにか心残りでしょう。
これからどんどん可愛くなる時期なのに。
少しずつお喋りできるようになって。少しずつ上手に歩けるようになって。子どもの成長を一番感じることができる時期です。
そんなお嬢さんの姿を、彼女はきっと天国から見守っていると思います。
でも、自分の手で最愛の子を育てられないって、どんなにどんなに心残りだろうかと考えてしまうのです。
また、残されたご家族のことを思うと・・・本当にやり切れません。
もし今、自分が子供たちを遺していかなければいけないとしたら?
私自身、夫と出会い可愛い子ども達に恵まれ、仕事も色々と不満はあるものの充実していて・・・今時点で幸せな人生を歩めていると思うし、後悔はありません。
が、やっぱり、子ども達の成長は自分で見たい。自分の手で彼らを大人になるまで導いていきたい。
そう考えると、少なくともあと10年は、絶対に絶対に生きたい。
できればあと30年くらい生きて、子ども達がどんな大人になるのかを見届けたい。
だって私の夢は、子ども達と飲み交わすことなんです。
http://zuboracco.com/drink_with_sons
それでも、人生何があるか分かりません。何があるか分からないからこそ「今」を大切に日々生きていかなければなりませんね。
特に、子ども達には、「自分が愛されて育った証」―自己肯定感のような目に見えないものも、写真アルバムのような目に見えるものも―をたくさん残してあげなければいけないと感じています。
いつか人生の道に迷ったときに「自分は愛されて育った」と思える記憶のようなものを。
そういうことを、改めて考えさせられました。
それと。
実は、彼女と高校卒業以来疎遠になってしまっていたことは、なんとなく気になっていて。
ちょうど私も育休中だし、折をみて連絡を取って会いたいな、なんて思っていたのです。
でも、その機会は永遠に失われてしまいました。
人間、いつ何が起こるか分からない。だから「いつか会いたい」と思ったら、「いつか」を待つのではなく、「すぐに」会いに行かなきゃいけないんですね。
そんなことを感じさせられました。
今回の友人との別れ、本当に色々な意味でショックでした。
彼女が、天国で安らかに眠ることを、そして天国からお嬢さんとご主人のことを笑顔で見守っていることを祈るばかりです。